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Pat Metheny [Orchestrion]

Pat Metheny [Orchestrion]
Original Release Date: January,2010


orchestrion

2010年初頭にリリースされた問題作。
半年以上経過してからのレビューというのも的外れなので、今回はちょっと別の側面からの所感を述べてみる。


まあ、自他ともに認めるメセニー・フォロワーとしては、未だに「どうよ、オーケストリオン」って聞かれることはある。
で、面倒くささもあって大抵は次のように答えてしまう。
「まあねえ、あれは単なるパット・メセニー・グループだから。」

Orchestrion という企画っつーか、「行為」の意味や意義に付いては、メセニー自身によっても詳細に語られているし、各種メディアによっても珍しく的を得た分析が為されている。
Pat Metheny 自身のインタビューからも窺えるように、このプロジェクトは非常に個人的な内容であり、ベクトルとしても自己の内面に向かうものだろう。
だから、オーディエンスが Orchestrion の特殊性に言及するのは、この作品の本質から離れる気がしてならない。
で、そのプロセスに触れず純粋に音だけを聞いた場合、当方としては前述の発言になるわけ。
どう聞いても、メセニー・グループですわ、これ。
というか、この音世界こそがメセニーが目指す Pat Metheny Group なのだろう。
そこに着目してしまうと、実際の Pat Metheny Group のアイデンティティを考察しなければならないのだけど、今回は割愛。
そういうレビューじゃないから。

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計算された骨格や相関性の緻密な構成、ギリギリのところで決して破綻しない展開。
この音楽、細部まで意志が浸透し、十分に練られてますわ。
決して感情のおもむくままとか、偶然性によるマジックでは無い。
いや、インプロビゼイションによる偶発性すらコントロールしようという明確な「意志」すら感じる。
ここで、この小節で奇跡を起こす、と。
起こるべくして奇跡が起こるように音楽を設計する。


なるほど、でしたよ。
メセニー・グループってこういうことだったんだな、と腑に落ちた。
もちろん、実際のメセニー・グループに存在する Jazz の特性は継承してはいるが、音楽作品としての骨格を冷静に俯瞰しつつ細部まで緻密に作り込まれている点で、メセニーがこの音楽に対峙した姿勢が明確に理解できる。
それは明らかに作曲者の視線だ。
フルオケの交響曲を書くような、純粋な作曲家としての視点。


ここまでは、まあ、当たり前っちゃあ、当たり前の考察。


そして、当方が強く感じ、更にはメセニーにシンパシーすら感じたのは、次の一点。
これ、間違い無く「譜面」によって作曲された音楽だということ。
話しの流れからするとこれも当たり前っぽい提議だけど、実は現代においては重要な意味を持つ。

Orchestrion という作品は「譜面」というツールを使った視覚的な把握と確認を経て完成された音楽だ。
「譜面」によって考えられ、「譜面」によって構成され、時間軸の断面までバランスを保たれ、ある意味では数学的に計算された音楽。
しかも、演奏者の力量や演奏される様々な状況まで考慮し、実際に解釈され演奏された時の「出来事」まで想定して作り込まれているフルスコア。
これは、当方にとって驚きであり、納得であり、嬉しさでもあった。


メセニーって、こうやって作曲するんだあ、という手法や過程を感じられて興味深かった。
そうそう、そうだよなあ、やっぱり、という親近感すら湧いたわけね。
やっぱそうするしかないよな、あーー、わかるわかるって感じ。


瞬間瞬間の整合性がチェックされ、全ての音がその意味を精査され、それらによって時間軸上で音の潮流を発生させるメカニズムを組立て、目的地までの道筋と構成がしっかりと吟味されている。
そこにどんなハプニングが起ころうと、音楽として到着すべきところに到着するように設計されている。

最も効果的な位置に即興パートが配置され、インプロビゼイションと作曲の有機的な融合によるミュージック・マジックの具現化すら想定されている。
この作業は、音楽をスコア的にイメージできないと困難だ。

誤解の無いように説明しておくと、当方がここで述べている「譜面による作曲』とは、必ずしも実際に譜面を書くという行為を指すものではない。
作曲という作業を行うにあたって、音楽を常にスコア的に捉えるという感覚であり、楽曲の細部や全体像の視覚的かつ論理的なイメージの仕方だ。
このあたりのニュアンスは、実際に作曲に慣れ親しんだ人以外には分かりづらいかもしれないが、例えば「メロディ、ハーモニー、リズムといった夫々の要素や、雰囲気の移り変わりや場面転換といった構成を、頭の中で五線紙上の音符に置き換えて考えているか」とデフォルメしても良いだろう。


テクノロジーが進化し価値観が多様化した現代では、必ずしも「作曲」という行為に譜面は必要ではない。
例えば、クラブの DJ までがターンテーブルに乗せたレコードやハードディスクの中に蓄えたトラックの断片を組み合わせ加工する事によって「楽曲」を作ってしまう時代だ。
このような極端な例だけではなく、音楽制作に DAW(Digital Audio Workstation)が一般的なツールとなった現在では、オーソドックスな作曲作業であっても実は譜面を感じないで曲が作れてしまう。

例えばシーケンサー上で直接曲作りをする場合には、ある程度の作曲・編曲経験があれば、スコア上での論理の組み立てとその検証という工程を経ずにデータを入力できてしまう。
そして、とりあえずシーケンスを走らせた時のサウンドの感触で都度判断して行けば、けっこう自分のイメージに近い曲を作れてしまう。
イメージを具現化する為のロジカルな思考ではなく、出たサウンドがイメージやコンセプトに則しているかを検証して積み上げる作業ね。
理屈として「どうしたら良いか」を考えるのではなく、感性と直感を優先したアーティスティックな作業と言えない事も無い。
ただ、作業自体の立脚点が「感覚」とか「センス」と言った漠然とした価値観に近いので、楽曲の細部にまで自分の意志を満遍なく浸透させる方向性が希薄になることもやむを得ない。
逆に、ともすると経験値とセオリーに縛られがちという危険性も無視できない。
もちろん、音楽の良し悪しとは別次元の話として。

もちろん、どんな作曲手法が優れているかという議論は無意味だ。
ただ、スコア的な視点で作られた音楽は、明らかに固有の質感を持ち、それと分かるのだ。
Orchestrion は、その質感に溢れている。

orchestrion


メセニーが Pat Metheny Group で目指す音楽は、その手法として非常に古典的な「楽譜」というツールでイメージされている。
この側面に着目した場合、今回の Orchestrion はメセニーの創造の核心に迫る作品と言える。
これ、自分的には妙に納得したわ。


ところで、メセニーが SibeliusDigital Performer の組合せで作曲をすることは昔から有名。

つまり Sibelius で作られたデータを DAW(DP) に流し込んでいるわけね。
多少強引な論法だが、メセニーが直接 DAW 上で作曲をしないという事実が、当方の考察を裏付ける。


譜面作成ソフトと言えば、クラッシックからポピュラーまで、この業界では FinaleSibelius というのが 2大ツールとして君臨している。
まあ、どんな国であっても音楽出版に携わるプロ御用達としては、実質的にこの2つしか選択肢は無いだろう。
当方は、楽譜作成には昔から Finale を使ってきた。
バンド・メンバーに配布する譜面や、自分の記録用の譜面は、すべからず Finale で作成していた。

最新版の Finale 2010 にもバージョンアップ済みだ。

で、実は Orchestrion を聞いて思うところがあり、今年の前半に Sibelius にあっさりと乗り換えてしまった。
ちょうど Sibelius Ver.6 がリリースされたタイミングで、国内代理店で乗り換えキャンペーンも展開していたわけで。
結論として、もう Finale には戻れない。
つーか、今となっては、なんで Finale なんか使っていたのかと後悔するほど。


Finale は、あくまでも出版楽譜を浄書するツールなのだ。

つまり昔で言うと写譜職人の道具だ。
確かに編集やレイアウトのコマンドも充実しているし、楽譜出版業界の複雑な慣習もきちんと考慮されている。
現代音楽の特殊な記譜方であろうと、古典楽器の特殊奏法であろうと、Finale で書けない楽譜は無いだろう。
巷に流通する楽譜データも、Finale 形式が圧倒的。
しかし、Finale は、それを使って音楽を創造するといった使い方には明らかに適していない。
例えば Finale はエディットしたい対象によって、専用のモードに入らなければならない。
五線を変更したければ五線のモードへ、記号を入力したければ記号のモードへという具合に、創造の過程では意味が無いばかりか、アイデアの断片を奪い取るような思考の切り替えを要求される。


一方、Sibelius は、作曲するツールとして素晴らしい操作性を持っている。
専用モード的な階層は無く、実際に紙の五線紙に書込むがごとくほとんど直感で操作できてしまう。
創造的な作業を中断させる事が無いのだ。
Ver.6を使う限り、Finale と遜色ない印刷品質も確保できる。
もはや当方にとって Finale を使う理由は無い。


ここでも、なるほど、って腑に落ちてしまった。
だからメセニーは Sibelius のユーザーなのだ。


当方が音楽を始めた頃は DAW なんてものは存在しなかったわけで、もともと譜面で作曲してきた人間だ。
実際の現場でも「ビックバンドのスコアが書けなければアレンジャーとは呼べない」という洗礼を受けて育った世代でもある。
しかし、DAW 環境が当たり前になってからは、前述したようなシーケンス作業に慣れ親しんだおかげで、けっこうデキナリ主義に陥っていたのかも、という突然の反省。
作曲中の自分の曲であっても頭の中にスコアが焼き付いておらず、曲が完成してから自分で作ったデータを改めて採譜するなどという情けない作業もけっこうな頻度で行う。
確かに「強い意志を持ち、ひとつひとつの音符に意味を持たせ、音楽が演奏される状況を積極的にコントロールしようとする姿勢」を、なんとなくおざなりにしてきた感はある。

まあ、これらの反省点は手法の問題ではなく、当方の姿勢の問題。
譜面で作曲しなくても、楽曲に魂を込める事はいくらでもできる。
当方の生れながらの適当さに問題がある事は百も承知。

それはそれとしてだ、ここはひとつ、譜面で曲を書くという原点に立ち返ってみようかと思い立ったわけ。
自分にとっては自然な立ち位置だし。
ヒンシュクを買う事も承知の上で、往年のマニアックな作風すら蘇らせても良いかと。
今年の前半に、そんなことを考えたのは、Orchestrion の影響もあったのだと思う。

飽きるほど暑かった夏も終わり、これから秋冬にかけては、仕掛中のフルオケのシンフォニーを仕上げなければならない。
これね、確かに Sibelius が無かったら着手すらしなかった課題だわ。



さて、Orchestrion 以後、Pat Metheny Gropu の動向が気になるところだが、色んな含みを持たせつつ Lyle Mays の動画でも。

Lyle Mays による Spectrasonic社 のバーチャル・インストルメンツ「Trilian」の試奏ビデオ。
これ、もちろん当方も所有しているが、ベース音源としては現時点で最強。
Lyle Mays と Alex Acuna のデュオによるインプロビゼイションだが、製品のデモという枠を超えて、かなりスピリチュアルな映像だ。
MIDI ピアノ で同社の看板製品「Omnisphere」もレイヤーさせているのが判る。
プロデュースとエンジニアリングは Spectrasonic 社の総帥 Eric Persing。
2010年の動画だけど、Lyle Mays も歳食ったなあ。



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おまけに、このセッションのダイジェストと Lyle Mays 自らの解説。
Eric Percing に Spectrasonic 社の製品説明を受ける Lyle Mays の姿とか、けっこう珍しいシーンも含まれている。


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